2009年3月10日火曜日

花と虫



今日は僕のポートフォリオから、一枚の写真を紹介します。

秋に撮ったものなので季節はずれです。


しかも被写体としては魅力に劣るくたびれたコスモス。

でも、そこにシジミ蝶が憩っていました。

くたびれて花びらの先端から枯れかけてもなお蝶に蜜を惜しみなく与える。

そんなコスモスの姿にちょっと心を打たれました。

まるでこのコスモスの花びらのように目じりがしわがれてきたと感じる青年と中年の端境期真っ只中の今日この頃。

人生が錬金術なら鉛は黒化を経て黄金へと変容するのだろうけれど、硫黄も塩も水銀も、弾けるような少年の瑞々しさを取り戻す秘薬としては現実には不十分で、急速に失われてゆく若さという青いパトスに郷愁とも思しき感情を覚えつつ、悪戯にすり込みを許してしまった集団のエートスに抗う姿勢を捨てきれずにいるくせしてそれに迎合してゆく自分を振り返るとき、境目がいつだったかは曖昧模糊として分かりようがないけれど、大人になるという過程が老いるという過程にいつの間にかすり替わってしまっているんだということに気付いて、少し慄く・・・

そんな気持ちが心の中に巣くっていたからでしょうか、老いつつある存在としてのくたびれたコスモスが、空気というエーテルの海を自在に飛び回る、まるで魂の自由と若さの権化のような蝶の生きる糧を提供しているという光景が、ある種の啓示にも似た鮮烈さで目に飛び込んできたのです。畏怖と畏敬の念を抱くようにそっと近寄り、心臓の鼓動より静かにシャッターをきりました。

老いるということは死にゆくということ。

でもそれは紛れもなく生きるということの裏返し。

であるならば両者は互いに不可分の一体をなす概念であって形而上学的には或いは等価なものなのかも知れません。

枯れつつある花は、その美しさではもはや人を魅了できないかもしれません。

でもその花心の周りに静かに蓄えた蜜で虫を養ってやることはできるのです。

そんな自然の味わい深さを想うとき、クロノスのたゆたう流れを憂えることに意義などないことに気付くのです。

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